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またも表現者が行動者へ

坂本「教授」ら3人が金融NPO 環境保護に低利融資

資産の運用先を銀行まかせにせず、自分たちが望む事業に役立てたい

表現という方法論にとどまらず実際に直接行動を展開し始めている人たち。

apbank
発足したAPバンクのサイト。

artists' power
この活動のもとになったartists' powerのサイト。

資産の運用先だけじゃなくたって、できるだけ無駄ではないような、できれば自分や多くの人が共有できる理想的な形に様々な制度が変わっていくと嬉しいというのは実は特別素晴らしくもないあたりまえで素直な気持ちだけど、実現するための余裕がなく、余裕があっても何かを恐れて多くの人がその要望に直結した行動をなかなか起こせない。仕方がないとしながらも何かもどかしさは残っている。単に夢と呼ばれて終わりそうだったそのヴィジョンを具現化するために、またも表現者達が行動者として動き出している。

彼等がいつどうやって動き始めたのかわからないが、なんだかこういう動きにはかなりの確率で坂本教授が一枚かんでいることが多いようだ。

同じく坂本龍一氏が大きく関わっているcodeは今年の3月から大幅に縮小されたとのことだが、この数年の間、サイトに書いてあるようにエコロジカルな意識が少なくとも確実に社会に敷衍していった。そこに果たした影響はなかなか見えていないようで実は大きいのではないか。

こういった運動で思い起こすのが、かつて広告という雑誌を中心に展開されたFSD(future social design)と呼ばれる一連のプロジェクト。幾つかは自然消滅してしまったようだが、確実に各方面に影響を与え、独立して進行した地域通貨プロジェクトはアースデイマネーとして定着している。

以下、一応続きます。

誰かが言い始めたエコが地球に優しいなんてのはおかしな話で、やってることを一面的な価値観だけに向けて美しく見せようとして、はぐらかして逆に問題を矮小化している。本当は人間のため。地表がいくら荒れたって、地球は死なない。困るのは人間だ。地表が荒れて死ぬのは人間だから。植物や動物?動物が死ぬのをみて悲しみ、食うもんがなくなって困るのも人間だ。エゴを貫こうとすれば結局エコに還流していく。

それにエコは突破口の一つ、切り口の一つでしかない。持たないよりはいいとはいえ、薄っぺらい環境保護意識なんて無理矢理持たなくてもいいんじゃないだろうか。環境保護のイベントだとかで集まって歌って踊ってるのを見たって、参加すりゃそれなりに楽しいのかもしれないけど、個人的に正直な気持ちを書いてしまえば、なんだかそういうのにも薄ら寒さのような違和感を感じるし。例えば環境保護だとか反戦とか、主張はどうあれ、最近流行り始めているファッショナブルでどこかダルそうなデモにも違和感を感じる。30年前くらいにゴッコで終わった暴力的な表現にも同じくらい違和感を感じるが。しかし勝手なイメージで単純に突き放してしまうよりも、なんでそういう運動が起きるのかちょっとでも考えてみるほうが重要なんじゃないだろうか。結局のところ、それを考えさせることが彼等の行動のモチベーションであり目的なのかもしれないが、結果として意識が動かされることに恐れを感じ、恐れることはおかしくはないがそれで棄却(abjection)してしまうようでは判断も議論も何もできない。

今回の銀行に関して言えば、斯く言う俺のようにほとんど環境問題に興味がない人だって、ユーザーを無視してる既存の銀行になんてほんとは大事なお金を預けたくなんかないって気持ちがあるってことが始まりでもいいんじゃないだろうか。今後一般からの拠出金が受け入れられ始めた時に自分が預けるか預けられるかどうかとかは別にして、こういう活動を面白い試みとして捉え、何かちょっとでも考えるきっかけにするとか。

おかしな社会。どこかおかしい、あるいはこうなって欲しいと少しでも思ったら、それを伝える手段は何か。変えるなんてことを考えるのはちょっと危険かもしれない。単に変化させることが正しいこととは限らないからだ。正しさの基準は個々の判断だから。とりあえずは思ったことを伝えるべきだ。

選挙のたびにとりあえず形にとばかりに信任して送り出す政治家は委託したはずの仕事をなかなか果たしてくれない。放っておいた地域社会はいつしか気づかぬうちに崩壊していて、家庭や学校や会社で何か始めようとしても多くの人が皆、忙しくて時間が足りないと言う。日本じゃ生活文化に神道や仏教が浸透しているように見えて、他国のキリスト教やイスラム教などのような拠り所にはなりづらい。かといって新興宗教に頼るってのも危ない話で、そもそも宗教は何も解決してくれない。むしろ宗教対立という新たな争いと矛盾を生み出すだけだ。じゃぁ革命を起こすとかテロを起こすとかってのはちょっと違う。矛盾を必然的に孕む人間性を否定するのは特に俺のように経験の足りない者が陥りやすい愚かさだと思うけど。

自分でできるのは小さくてもいいから会話でもメールでもウェブでも何でもいいから何らかの表現を周囲に対して受信を強制せずに断続的に発信していくこと。そして、働いたり物を買ったりする度に発生する生産・消費行動。それぞれが見方によっては小さな生産・消費行動であってもそれぞれにポリシーを持つこと。だけどやっぱり何か各々の最低限の基準に賛同できる他者と繋がり共有できる運動が欲しいと思う人は多いはずだ。

それが何か、個人的にもまだほとんど見えてこない。国家ではないということは確かだ。国家への帰属性は否定しても否定しきれず誰もが持っていると思うが、個から公へシフトする時に国家という大規模共同体にいきなり直結することは非常に難しく、全体性への極端な傾倒に伴って生じてくる様々な危険な側面さえもある。人間には中間共同体が必ず求められるのではないかとこのところずっと考えている。是非を別にして向心力のあるような一神教的宗教性に土着的に乏しく、多くの土地でジワジワと地域共同体が崩壊しつつあり、今や戦後多くの国民が拠り所としてきたと思われる企業社会に対する帰属意識も大きく否定された日本で、少なくとも崩壊したかもしれない各々の共同体意識がいつか回復するまで、何を拠り所としての中間共同体として用意あるいは創出してやり過ごすか、難解な命題として今ここに提起されているのではないだろうか。

であるからこそ、この問題が波及して巻き起こした病理的ともいえる波紋の一つに、例えば急激に展開する所謂自己責任論というものがあるとは言えないだろうか。先のイラク邦人拘束事件では国も巻き込んで顕著にそれが露呈しただけであって、企業や行政さえ巻き込んだ極端な成果主義性へのシフトや、多様化という脅し文句によって放任された結果として起きた価値観と倫理観の不在、S/N比など既に個人の判断力では推し量ることもできない膨大な情報の氾濫など、それこそ様々な要因が、畳み掛けるようにして恐怖感と喪失感の波状攻撃となって個々人の意識に潜在的に浸透したために、既に「自己責任」というあやふやな概念にでもすがって回避するしかなくなっているのかもしれないのだ。言っておきたいのだが、責任というのはそもそも自己責任でしかなく、自己責任というものをでっち上げなくても責任という概念の中に内包されているということだ。自己責任という言葉の源泉は知る由もないが、非常に特殊な言語表現と捉えることもできることをここに明確にしておきたい。しかも自己責任における自己の主体とは事例によっては企業体に代表されるような組織のことも示しうるわけだ。

例えば企業社会への成果主義の導入が悪だと言っているわけではない。しかし仮に欧米型とするその方法論をそのまま日本の文化的素地に移植したところで拒絶反応をしめすだけだと言っている。拒絶反応を俄かに示すことができない者は歪み、逸脱していく。逸脱する対象そのものさえないかもしれないというのに。近年、「フリー」だとか「ノン」と頭につく存在・概念が皮膚感覚として増加あるいはクローズアップされてはいないだろうか。フリーター、フリーライターやフリージャーナリストなどをはじめとするフリーランス○○○。NGO、NPO...。茫漠とした囲いの無い社会概念から必死にあがきながらも漂流し逸脱しながらアイデンティティーを確立しようとするオルタナティブな存在概念。とみるのは深読みかもしれないが、なんらかの興味深い兆候をしめしてはいないだろうか。これを単に無責任やある種の社会的ロールの放棄としてみるのは多少安易過ぎるような気がしてならない。

単に移植するのがだめならじゃぁどうすればという問いに答えるのは折衷せよという言葉しかない。これまた論拠として説得力に乏しいものだが、日本は歴史的に外的な要素を内的要素と折衷融合することで独自の文化形態を形成してきたという側面が強い。こういった特性はどこの国でも少なからず持っているものだが、日本はそういった部分に長けていると主張するにたる論証は歴史によってなされているのではないか。また、折衷云々以前に、仮に欧米的だとする概念・方法論はそもそも何が欠けているか、つまり何によってその欠けている部分が補われているかどうかに着目したい。例えば例に挙げた成果主義等については、社会通念としてそれが適用される背景には互いの責任を明確にした契約社会が成り立っていなければならないのだ。これはキリスト教等における神との契約のことではなく、まぁこれについてはある程度暗示的なのかもしれないが、企業社会における雇用者である企業体と被雇用者である労働者との契約(contract)のことであると同時に社会契約論的な思考を生活習慣レベルで共有する社会風土のことだ。どうだろう、日本に社会契約論的思考などを共有する風土が今現在醸成されているだろうか。極論すれば未だに約束を守らなくても許されてしまう社会だ。その点は政治家やボーダフォンを見れば明白。(なんちゃって。)今後段階的に契約概念の浸透が進んでいくことは現状を鑑みても明白だが、それならそれで社会的状況に合わせてフレキシブルに対応していく柔軟性が求められるのだが、乱暴に言ってしまえば今は右か左、YESかNOのそれこそアメリカナイズされた極端さによって制度が状況とプロセスを無視して強引に定義され、制度を制度化する主体の意志も了解も、適用される側の意志も了解もそこには介在していないかのようである。

話を戻して何を中間共同体とするかだが、個人的に直感で言ってしまえばNGOやNPOというような類のものではないような気がする。少なくとも現在の日本においてNGO、NPOとされる組織概念は、その大部分が目的としている公共利益のようなものと、ある種特化された目的性の存在そのものからして、今ここで論じているような中間共同体としてはなりえないような気がするのだ。(それら全ての活動と組織の詳細について完全に把握しているわけはないという前提で独断偏見をもって言わせて頂いている。)もしかしたら、それらを個々がニーズに基づいて複合的に組み合わせたところに何か依拠するものを見出すかもしれないという可能性はあるのだが。

実は、もう一つ、ここまで来るとあまりに現状と乖離するので、もう空想的にさえなってきてしまう概念を考えている。結果として中間共同体どころか国家というレイヤーも飛び超えてしまうことになるものの、例えば国連というシステムを進化・展開させた概念を用い、国家とは別のベクトル、横方向の連続・関連性をもってして、これを国家や地域社会ともスパイラルに結びつけることで、何らかの共同体意識を生み出す活路を見出すことができはしまいかということも考えている。ただ、こういったことを考えていると、やはり先ほど否定的に捉えたNGO・NPO概念ともリンクしていくことになりそうになる。まぁちょっとこれは飛躍しすぎた突飛な考えだが、様々な可能性を議論して可能性を模索する、思考実験にも似た作業を行うプロセスの中で何かを導き出せる可能性があるのではないかという漠然とした思いがある。しかしながら、何を話し、考えるかと同時に、実際に行動していくことも、いやむしろこちらのほうがより重要である。

既存の統治機構や企業社会の無駄と無力さに業を煮やし、矛盾や怠慢を告発し、大衆に変革への行動を訴えるために音楽をはじめとした表現活動をする人たちは多い。もちろん楽しむことが大前提で、これらが想定される表現のモチベーション全てではないが。表現活動だって立派な行動の方法論だ。しかし最近じゃそれでも足りなくて、自分たちで行動し始める人たちが出てきている。今までだって行動を開始している人たちはたくさんいたはずだが、伝染する借り物の不況感と、確実に持っていると錯覚してた価値観の崩壊が眼前に迫ってきた。いろんなことが切迫感を掻き立てて、情報化がそれを加速しているんじゃないだろうか。

きっかけを与えてくれる人がいるのだから、賛同する人はとりあえずはそれを応援してみたらいいんじゃないだろうか。賛同できない人だって全面肯定はできなくても、あるきっかけから何かを得て、考えて判断行動することはできる。

と、飛躍に飛躍を重ねて何を言いたいんだかさっぱりわからんことになっていますが、とにかくね、美味しいラザニアが食いたいってことですよ。