2006/07/17/145940

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ぼくはこんな本を読んできた/立花隆

立花隆のぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論を読み終えた。文庫版も出ているのだけど、古本屋で100円で売っていたので。

ハウツー的要素を持つ本はあまり好きではないのだけど、最近またもや自分の知識の無さを実感していたので、何かのとっかかりになるかと思い、トイレに置いとく本として買っておいた。

95年刊行ということで、続編的性格のぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術等と比べて内容は古いのだろうと思ったが、読書論みたいなもんは、95年以前、ネットが一般に普及しきる前のものを読んだほうが面白いような気がしていた。読書や調べ物に対する考え方というのはネット以前と以後では大きく変わるような気がする。書物の果たす役割というのはネットの普及に関係ないかのように見えて、実はネット普及以前はネット普及後に比べて、書物の存在感が大きかったように思う。あ、それと、一昔前のほうが、立花隆が冴えていたような感覚もある。

大便する時しか読まないし、物語ではないので読み終えるまで相当時間がかかるか、読み終えずに本棚の肥やしになると想定していたが、意外にも早く一週間か二週間程度で読み終える。それだけ大便しまくったってことか?

タイトルや副題から想定される内容とは異なるのは予想の範疇だが、読書論云々というよりも、感覚としては立花隆の自伝のようなものに近い。まぁこの人が常に本、活字と一緒に生きてきたということなのだろう。雑誌等に連載されていたエッセイなどを集めたものなので、多少まとまりに欠けるし、ハウツー的な要素を期待する読者は肩透かしを食うだろう。

ただ、面白い。知的興奮とまではいかないが、多少なりとも読書の好きな人、雑学の好きな人、要は好奇心旺盛な人にとっては、楽しめる内容だろう。こういう生き方ってのは、本好きにとってはある意味理想なところがある。この人ほど量を読んでいなくても、なんとなく共感するところが多い。

特に印象に残るのが文藝春秋退社時に社員会報に書かれた『退社の弁』。ジャーナリズムの世界で彼が感じた

思惟とのフィード・バックがない観察はなにものでもないだろうということ
超人的に見たつもりで凡人的にしか見ていない
という焦燥感、
すべての人を慢性的な情報過多症におとしいれ、見たつもりで何も見ていず、聞いたつもりで何も聞いていない人間に、すべてを見、すべてを聞いたつもりにさせて安心させるという役割を果たしているのではないか
というジャーナリスト(ジャーナリズム)に対する疑惑、そういった諸々の感慨から導き出された結論、
ぼくはより多くを見るために、より少なく見ようと決心した。
これら全ては今自分がネットやマスコミに流れる情報(の解釈)に触れる際に考えていることと大きく重なる。

他、中学の校内誌に載った作文、『僕の読書を顧みる』も興味深い。彼は中三の時点で所謂「古典」や「名作」のうち、かなりの部分を網羅してしまっているのだ。しかもこの時点ではまだ自分の読書は「上すべり」のもので、作品の真意を理解してはいないという認識を持っている。

事務所の秘書兼アシスタントを公募した際に、出された筆記試験がまた面白い。とりあえずこの試験をクリアできるくらいの「常識」は身につけたいと思えた。

後半に収められている『私の読書日記』という週刊文春に三年間連載された書評集は、読み流す程度に考えていたが、扱う本のジャンルがこの人らしく非常に広範で、どれも本の一番の読みどころを押さえているのだろうと思える。短い書評が並んでいるだけなのだが、何度も「目から鱗」な記述に行き当たる。ここだけでも読む価値があった。